明治21年〜22年月ころに誕生したとされ 大正・昭和中期 まで商品宣伝の主流をなしていた。しかし一時代を築いた琺瑯看板は時代の事情やメディアの発達に伴い、昭和50年ころより徐々に姿を消していった。
耐久性から現在でも美しい姿を保っているものもあり、そのレトロな雰囲気が好まれ愛好家
の収集の対象になっている 。
上七軒の細い路地 ふと見上げると大好きな看板がいっぱい!! 妃木路子リポート
明治21年〜22年月ころに誕生したとされ 大正・昭和中期 まで商品宣伝の主流をなしていた。しかし一時代を築いた琺瑯看板は時代の事情やメディアの発達に伴い、昭和50年ころより徐々に姿を消していった。
耐久性から現在でも美しい姿を保っているものもあり、そのレトロな雰囲気が好まれ愛好家
の収集の対象になっている 。
上七軒の細い路地 ふと見上げると大好きな看板がいっぱい!! 妃木路子リポート
福をもたらす「蓬莱鬼」が出て賑わう八坂神社の節分会 この日の夜は芸妓や舞妓は 厄払いの 仮装遊びである《お化け》と呼ばれる趣向を凝らした格好で お座敷へ あがる。 春を真近にひかえた 花街らしい余興である。
妃木路子リポート
京都市の鴨川にかかる御池大橋西詰めに漱石の句碑が鎮座しています。
この句にまつわる彼のエピソードを御紹介いたします。 お堅いイメージの文豪夏目漱石は花街の祇園とは縁遠い印象を受けるが、明治40年春に京都の寺めぐりばかり楽しんでいた彼は、たまたま京都に来ていて出会った高浜虚子に誘われ『都をどり』を見物しています。その後祇園の有名料亭で舞妓や芸妓と遊び、そのまま彼女らと雑魚寝して朝帰りするなど柔かい?一面を覗かせています。 大正4年の早春、漱石とお茶屋『大友(だいとも)』の女将・多佳は北野天満宮で梅見デートを約束したが、当日お互い行き違ってとうとう会えなかったそうです。(当時、携帯電話があったなら問題なかったのに・・・・・) このことを「漱石はフラれた」と噂した京雀もいましたが真相は違うようです。後日、漱石は多佳に頼まれて色紙に俳句をしたためましたが、その句が歌碑に刻まれています。 「春の川を 隔てて 男 女哉」 ・・・漱石は数日間木屋町の宿に逗留していましたが、鴨川を挟んで反対側の祇園に住む多佳を思って作った句と云われています・・・ 島添リポート
|