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5月 2017

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洛北一詩仙堂を訪ね、石川丈山に想いをはせる

五月晴れの23日、詩仙堂を訪ねる。この山荘は、徳川家康の近習<きんじゅ又はきんじゅうとも>だった石川丈山が官を辞して(今ならリタイヤして)、のち長く隠棲した閑居。中国漢、唐など36人の詩人の肖像を掲げる部屋名から詩仙堂と呼ばれるようになった。曹洞宗の「丈山寺」でもあり、この日は関係者による法要が営まれ庭園は自由見学できた。

この庭園は鹿威し(シシオドシ)発祥の地。僧都(添水)<そうず>ともいい、静けさを強調する仕掛けとしてよく知られている。

石川丈山は漢詩に優れ、また儒学、書、煎茶、造園(東本願寺渉成園)などの精通していた。丈山は徳川家譜代の家系で出仕してからずっと家康の近習を務め、信頼も厚かったが、大阪夏の陣において近侍の掟を破り、功を焦って(通説)戦場に突っ込む。この為謹慎処分となる。辞職後実家に戻り、母の願いから浅野家に仕官するもその没後念願?の隠棲生活を送るべく京都へ。漸く「武」から「文」の世界へ。儒者藤原惺窩に師事、林羅山等々多くの文人儒家と交わり隠棲生活というも弟子もつき、俗から離れた自由な生活を送り天寿を全うする(一度も鴨川を西に渡らず)。

下記画像が元祖 「ししおどし」  いったい何代目だろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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爽やかな季節、鴨川(と賀茂川)を歩きませんか!!

私の大好きな鴨川は、北山の桟敷ヶ岳を源流とし、下鳥羽で桂川と合流するまで約35kmの一級河川です。かもがわは、出町柳から上流を賀茂川(上賀茂神社に因む)、合流後の下流域を鴨川(下鴨神社に因む)と使い分け現在の整備された鴨川は、市民の憩いの場となっていますが、長い歴史の上では京都人と深く関わり様々な顔を持っています。平安時代は伊勢斎宮のみそぎの場としての神聖な川であり、またある時は飢饉や疫病の犠牲者の葬送の地ともなり、時として権力者による処刑の場ともなりました。江戸時代には四条河原周辺には芝居小屋をはじめ多くの店が進出して一大歓楽地にもなりました。

白河法皇の「天下三不如意」にあるように、為政者にとって暴れ川の治水対策は頭痛の種だったかも知れません。豊臣秀吉は「御土居堀」を造り、江戸時代の始めには「寛文新堤」が造られ、昭和10年の大水害の後には大規模な治水工事が行われました。戦後は「鴨川を美しくする会」などの市民活動や「鴨川広域公園」が造られ、京都の美しい自然のシンボルとして、市民の憩いの場として親しまれています。

★画像は鴨川のどこでしょうか?捜してみてください。見つけたらメール頂くと嬉しいです。

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◆待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)と法金剛院のお話

29歳の若さで法金剛院(ほうこんごういん)を建て、人が造る滝では最も古い滝石組の庭造りに夢中になったひとりの女性がいた、その女性は待賢門院璋子。璋子は白河法皇の寵妃(ちょうひ)祇園(ぎおん)女御(にょうご)の養女となり、美しく艶(つや)のある女性になった。1117年法皇は璋子を孫、鳥羽天皇の中宮にした。やがて二人に崇徳(すとく)帝が誕生。しかし、璋子が生んだ崇徳帝を鳥羽天皇は「叔父子(おじこ)」と呼んだという。5歳で崇徳帝は天皇に即位、 翌年璋子は待賢門院となる。女院は鳥羽天皇との間に5男2女を儲けたが、1129年白河法皇崩御。法皇の追善供養を兼ね待賢門院は法金剛院で落慶供養を行った。五位山(ごいやま)を背に大池、阿弥陀堂、女院の東御所を造営。特に、女院は浄土庭園には思い入れが強く、滝の高さ 2.2mであったのを一段高く石組を積み上げ4.3mの高さにした。

女院の御所には、才媛が仕えており、女院の姿をひと目見んと都人が往来し、華やかな宮廷生活が繰り広げられていた。その中に西行の姿もあったという。鳥羽上皇が美福門院(びふくもんいん)を寵愛するようになると、待賢門院は権勢を失い、1142年自らが復興させた法金剛院で髪を下し、3年後、45歳で亡くなった。法金剛院は7月になると極楽浄土の蓮が咲き、待賢門院の往時を偲ばせている。

待賢門院彰子画像は2014.7.3京都新聞掲載の「京のうつろいの美」から転載させていただきました。

レポート 吉村