29歳の若さで法金剛院(ほうこんごういん)を建て、人が造る滝では最も古い滝石組の庭造りに夢中になったひとりの女性がいた、その女性は待賢門院璋子。璋子は白河法皇の寵妃(ちょうひ)祇園(ぎおん)女御(にょうご)の養女となり、美しく艶(つや)のある女性になった。1117年法皇は璋子を孫、鳥羽天皇の中宮にした。やがて二人に崇徳(すとく)帝が誕生。しかし、璋子が生んだ崇徳帝を鳥羽天皇は「叔父子(おじこ)」と呼んだという。5歳で崇徳帝は天皇に即位、 翌年璋子は待賢門院となる。女院は鳥羽天皇との間に5男2女を儲けたが、1129年白河法皇崩御。法皇の追善供養を兼ね待賢門院は法金剛院で落慶供養を行った。五位山(ごいやま)を背に大池、阿弥陀堂、女院の東御所を造営。特に、女院は浄土庭園には思い入れが強く、滝の高さ 2.2mであったのを一段高く石組を積み上げ4.3mの高さにした。

女院の御所には、才媛が仕えており、女院の姿をひと目見んと都人が往来し、華やかな宮廷生活が繰り広げられていた。その中に西行の姿もあったという。鳥羽上皇が美福門院(びふくもんいん)を寵愛するようになると、待賢門院は権勢を失い、1142年自らが復興させた法金剛院で髪を下し、3年後、45歳で亡くなった。法金剛院は7月になると極楽浄土の蓮が咲き、待賢門院の往時を偲ばせている。

待賢門院彰子画像は2014.7.3京都新聞掲載の「京のうつろいの美」から転載させていただきました。

レポート 吉村